ワールドミュージックは多様性の素晴らしさを教えてくれる。
 「グローバル化」なる掛け声の下に単一システムの元で生きる事を要求されたり、そもそもの違いを認めようとしないいびつな「男女平等」が叫ばれたりと、何かにつけて「同じ」である事が要求される事の多い世の中ではあるが、ワールドミュージックはそれらとは真逆の事象である「多様性」の大切さを教えてくれる。
 ワールドミュージックの世界から垣間見えるもの、それは多様性の素晴らしさだ。
世界に広がるそれぞれの地域には、それぞれに美しい伝統がある。
 それらは比べる必要もないし、また様々に影響し合おうがそうではなかろうがいずれにしても素晴らしいものは素晴らしいのである。

 そして音楽、これは人間との関わりから生み出されるものだから、「音楽」には「人間」の縮図、「人間社会」の縮図が投影される。
ワールドミュージックは、その音楽を通して私たちの眼前に人間の生きる広大な世界とはどのようなものなのかを暗示してくれる。
ワールドミュージックに親しむ事は、この複雑な人間世界とはどのようなものであるのかを直観的に理解する助けになるだろう。
そうした理解がこれからの社会を担う新しい世代に必要になるのは間違いない事であると思う。

 ワールドミュージックといわず、演奏を通して音楽を学ぶ事はすなわち人生を学ぶ事である。
 演奏も人生も時間軸に沿って動き、始まりと終わりのあるやり直しの利かない体験が一期一会に続く性質を持つ。
演奏は物理法則に逆らっては決してうまくいかない。
音楽における全ての流れは、水面に石を投げた時のように波動として自然に伝わらなければならない。
演奏という行為は、引力や天体の運行に通じる何かには逆らえない。
リズムの周期性、和声の調和、音程の在り方、そういったものは全てあるがままの世界、あるいは「宇宙」といってもよいかもしれないが、そういったものと関わりを持つ。
 演奏を通じて音楽を学ぶ事によって、そのような事柄に気付かされる。
おそらく人間が学ぶべき最高のものの一つは、「音楽を演奏する」という行為の中にあるのではないだろうか。
 そしてその学ぶべき対象が「ワールドミュージック」であったならば、合わせて狭い地球に共に暮らす世界の同胞とどのようにして一緒に生きて行けば良いのか、という事さえも理解し得るのではないだろうか。

 ところで物事を理解する時の態度として、様々な事象から結晶のようなものを導き出そうとする科学的分析的手法を取る事もあれば、もう一方では複雑なものを複雑なまま味わう哲学的直観的手法を取る事も必要だろう。
様々な事象から結晶のようなものを導き出そうとする立場においては、様々に複雑なものたちから共通事項を探し出さなくてはならない。
こちらの姿勢にはデジタルと同じ性質のわかりやすさがある。
 一方、複雑なものを複雑なまま味わう立場においては、前に挙げた様々な事象から結晶のようなものを導き出そうとする態度さえも複雑なものの一つとしてそれに包含し得る。
こちらの姿勢にはアナログと同じ性質の豊かさがある。
 様々な事象からとある共通項を導き出す事は未来への指針を見つけるためにもちろん重要であるし、また、「分析」と対をなす概念とは別であるかもしれないが、あるものをあるがまま、複雑なものを複雑なままに理解しようとするアナログ的態度も明るい未来を築くためには必要だろう。
 ワールドミュージックを紐解いていく中で、これら二つの手法が同時に行われれば、より深い理解に到達する事に気付くはずである。

ワールドミュージックを学ぶ事は、これからの世界を担う世代の、ものの見方をぐんと豊かにするのではないだろうか。