音楽が人から生まれ出てくるものであり、また芸術とは人間が感じた何かを抽象化するものである限り、複数の人間が参加するバンドアンサンブルもまた一つの社会を形成する。
バンドアンサンブルの中では広く人間社会全般において一般的に見受けられるような、あらゆる複数の人間のあいだに横たわる関係が存在する。
自分の演奏が磨き抜かれたものである事は当然のように大切ではあるが、単にそれだけならば「仲間」と共に音楽を作る必要はない。
もしも一音も自分の音を出さなかったとしても、そこにはその人の音楽性がある。
もしも一音も自分の音を出さなかったとしても、そこにはその人の音楽性が感じられなければならない。
それがバンドの音であり、アンサンブルの音というものだろう。
それをどう伝達する、あるいは伝達し合うか・・・
マイルス・デイビスの音作りなどはその好例かもしれない。

もしも自分で自分のバンドを率いるならば・・・メンバーがどのような音作りをするのか、そこにまで気を配らなければならないだろう。
音作りについてあれこれ語り合う中で、その場に自分の音が必要でなかったとしてもそこには自分の影響を含んだ音が残る。
それがその人の音楽だ。
極論してしまえば自分のバンドが出す音は、自分そのものの延長でなければならない。
メンバーからどのような音を引き出すのか、それも自分の力量であり、また自分の音楽だ。
以前にブログ記事(http://kojifujita.com/blog/archives/2010/02/08/)の中でもお話しさせて頂いたように、自分の力量だけを磨いたり、またそこのみに集中する事は、全くのソロではない場合の音楽の形としてはかなり不自然でいびつでナンセンスなものだろう。
アンサンブルの要はずばり「人間関係」であり、また「メンバーとの対話」だ。
お互いの出す音についてあれこれとやりとりをしなければならない。
そして普遍的な人間関係と同じように、他人は自分の思い通りに動かない。
共演者のアイデアを楽しまなければならない。
同時に自分の感性も出していかなければならない。
それは相当に複雑な関係ではあるが、単純化する事なく、複雑なものをありのまま複雑なまま捉え処理するところに大きな芸術は作られるのではないだろうか。
それを実践しなければならないのである。

とどのつまり・・・多くのリスナーは決してその人の音のみで音楽を楽しまないだろうという事。
トータルでの音楽を楽しむのが、ごく普通の姿だろう。

バンマスは指揮者のようなものだ。
常に自分のバンドの音の動向に関心を持ち、またそれを自分のものとしてコーディネートしなければならないだろう。
「自分のバンド」の音は「自分の音である」。
こういった意識が共演者がいる場合には大切なのではないだろうか。